沿革
光圓寺は明治初期、開拓の厳しい労働、厳しい寒さなど様々な苦労が重なり亡くなった方々の仮埋葬の場が墓地(現北野墓地)となり、やがて説教場が開設された事から始まります。
明治19年墓地として設置許可が下り、明治30年以降福井県明巌寺住職乙坂閑寿師がこの地に来られ、明治33年7月に開教。翌年12月アシリベツ説教場を開設し、居住すること10年にして寺号公称を果たしました。
第一世住職武部先心師は、富山県光善寺より札幌別院に奉職、明治43年寺号公称後に入寺、当寺の基礎を作りお念仏流通のため8年間心血を注がれましたが大正7年11月19日、当時流行したスペイン風邪で行年41歳にて往生。大正8年7月より、当時安楽寺住職様であった横湯僧潮法師が代務住職として大正10年4月までお務めをいただきました。
同年同月に第二世住職として、富山県大徳寺斉藤昇龍法師がご縁あって、法灯を継承され、50有余年の長きに亘り、当寺護寺発展に精進されました。その間、永年風雪に耐え老朽化した本堂、庫裡の新築を昭和36年、門信徒一丸となり完成を見るに至りました。その後、押し寄せる年波に勝てず、昭和51年9月24日に行年81歳をもって往生の素懷を遂げられました。
第三世住職一瀬隆城法師は、富山県禅楽寺より本願寺札幌別院に奉職、後継住職に決まった昭和51年7月に当寺副住職として入寺。同年12月に法灯を受け継ぎ、翌年1月に本山より住職を拝命されました。
時代の流れは厳しく、当寺周辺は都市化が進み、時代に即応した施設を望む声も上がり、昭和53年には納骨堂、庫裡、翌年の昭和54年には会堂を建立し、仏事の施設として、またお念仏聞法の道場として歩んで参りましたが、平成11年に開教百年記念事業として、本堂、納骨堂、庫裡の新築落成慶讃法要を勤修いたしました。
令和2年に開経百二十年を迎え、その記念事業として、近年の社会環境の変化にともない、お墓や納骨壇の後継者がいない方々など、永代にお骨を管理できる合同納骨礼拝堂『響流廟』を新設いたしました。
令和3年11月、第四世住職一瀬守城法師に法灯が継承されました。師は前住職の跡を護り、当光圓寺が初めて血縁で結ばれた歓びの中で、令和4年8月28日に開教百二十周年記念慶讃法要並びに第四世住職継職奉告法要、そして親鸞聖人御誕生八五〇年・立教開宗八〇〇年お待ち受け法要を盛大に厳修いたしましたことは、何事にも代え難い歓びであります。
今後も門信徒一丸となって、お念仏相続、護持発展に力を注ぎたいと願うばかりであります。